エホバの証人の教え通り、本当に魂は消滅しちゃうの!?

そういえばエホバの証人って魂も消滅する教えやったよな?
その通りですよ
これはアンチエホバの証人の方のブログでも、魂は消滅するとありましたので・・・
これは以前アップした記事・・・
でも書かれている通り、エホバの証人は人の死後に魂は消滅するということを信じています。
これはエホバの証人を批判するサイトでも、人の死後に魂は消滅すると記載されています。
実は私は魂が消滅するという恐怖に悩まされていました。
人は死ぬと無存在になり意識も何も無くなってしまうことの恐怖が付きまとい、この恐怖があったからこそ私はエホバの証人になったと言えます。
今回はこの話題を取り上げて解説していきましょうか?
もくじ
エホバの証人は死後の魂が消滅するということを信じている
私は人の死後、魂は残らないということを母親から学びました。
さらに母親から後を引き継いだ年若い司会者も、魂は消滅すると言っていました。
エホバの証人公式サイトではどのように答えているのでしょうか?
聖書はこう述べています。「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識も……ない」。(伝道の書 9:5。詩編 146:4)したがって,人は死ぬと存在しなくなります。死者は考えることも,行動することも,何かを感じることもできません。
さらに偽りの教え魂は不滅であるという題名の記事ではこう説明しています。
最初
の 人間 の 魂 の 創造 に 関し て,聖書 は こう 述べ て い ます。「エホバ 神 は 地面 の 塵 で 人 を 形造り,その 鼻孔 に 命 の 息 を 吹き入れ られ た。すると 人 は 生き た 魂[ヘブライ 語,ネフェシュ]に なっ た」。―創世記 2:7。 ここ
で「魂」と 訳さ れ て いる ヘブライ 語 ネフェシュ は,『呼吸 する もの』を 意味 し ます。神 は 最初 の 人間 アダム を 創造 し た 時,アダム に 不滅 の 魂 を お与え に なっ た の で は あり ませ ん。呼吸 に よっ て 維持 さ れる 生命 力 を お与え に なり まし た。聖書 的 な 意味 で の「魂」と は,生き て いる もの の 全体 の こと です。神 から 与え られ た 生命 力 が なくなる と,魂 は 死に ます。―創世記 3:19。エゼキエル 18:20。
そしてその根拠となる聖句も取り上げていますね
かなり無理やり聖句を解釈しているようにしか見えませんね
意識が無いという根拠となっている伝道の書とは?
ものみの塔には死んだ者には意識が無いと書かれています。
その根拠とされている伝道の書は、聖書で唯一人間の観点からみた書物です。
伝道の書に度々出てくる言葉、”日の下で”というのはこの地上においての話になります。
意識が無いという言葉は、”この地上では意識が無い”ということを意味しています。
ここでの文脈は、日の下つまり地上での話に限定しているということ
この地上で死んでしもうたら人の意識を他の人に引き継ぐとはできへん
だからそう意味で意識がないと書かれとるんやな
ものみの塔は聖書箇所のある一つだけをフォーカスして解説しています
どの本でも言えることですが、本は全てのページを読まなければその本が言いたいことは分かりませんよね?
つまり一か所だけ見ていても、その本がいいたいことは分からないのです
だから伝道の書だけ読んで死後の意識は無いと結論づけるのはよくないということですね
しかし詩編にも人の考えが滅ぶとありますが・・・
詩編146のはじめには、信頼を置いてはならない人の救いは無く彼らの考えは滅ぶとあります
つまり人の死後に魂が無くなるとは書かれていないのです
だって科学雑誌を見ても人の意識は無いと考えれているみたいじゃないですか!
それはエホバの証人でも同じ認識とちゃうか?
なんだかんだ言ってエホバの証人は、統治体よりも聖書を第一に考えとるやろ
聖書では本当は死後の魂について何と述べているのか?
新世界訳聖書のルカを見てみましょう
ルカ16章19節から21節
「ところで,ある富んだ人がいて,紫と亜麻布で身を飾り,豪しゃな日々を楽しんでいました。 一方,ラザロという名のあるこじきは彼の門のところに置かれ,かいようだらけの身で,その富んだ人の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。そのうえまた,犬が来ては彼のかいようをなめるのでした。
出典:新世界訳聖書より
ここでおかもとさんに登場人物が富んだ人とラザロがいることだけ分かっていただけたらよいです
さらに続きます
ルカ16章22節から23節
さて,やがてこじきは死に,み使いたちによってアブラハムの懐の位置に運ばれました。「また,富んだ人も死んで葬られました。 そして,ハデスの中で目を上げると,自分は責め苦のうちにありましたが,はるか離れた所にアブラハムがおり,ラザロがその懐の位置にいるのが見えました。
出典:新世界訳聖書より
こ〇きってラザロのことですか?
二人とも亡くなりましたが、死後にこ〇きであるラザロはみ使いによってアブラハムのところに行きました
そして富んだ人は責め苦の中にいました
人の死後は無意識無存在であるんやったら、
なんでアブラハムがおることが認識できるんや?
そして自分が責め苦に遭っていることも分かるんや?
自分はエホバの証人時代にこの話はイエスがなされたたとえ話だと教えられましたが・・・
登場人物が富んだ人ならおそらくたとえ話だと考えることができるかもしれません
しかしラザロとアブラハムという人物が出てきます
ラザロはともかくアブラハムは実在の人物でしたよね?
しかし人の死後に何かを考えたり話したりすることはできないですよね?
続きの聖句読んでみ!!
ルカ16章24節から25節
それで彼は呼びかけて言いました,父アブラハムよ,わたしに憐れみをおかけになり,ラザロを遣わして,その指の先を水に浸してわたしの舌を冷やすようにさせてください。わたしはこの燃えさかる火の中で苦もんしているからです。しかしアブラハムは言いました,子よ,あなたが自分の生きている間に,自分の良い物を全部受け,それに対してラザロが良くない物を受けたことを思い出しなさい。しかし今,彼はここで慰めを得,あなたは苦もんのうちにある。
出典:新世界訳聖書より
富んだ人はアブラハムとラザロに話かけています。
それに対してアブラハムは富んだ人に答えています。
確かに亡くなった人をたとえ話に出すことはあるかもしれません。
もし仮にこの話がたとえ話であるならば、ラザロが亡くなったあとアブラハムの懐へ行ったと詳しく描写するのでしょうか?
そして会話をしたことを詳しく説明したのでしょうか?
このイエスキリストがされた富んだ人とラザロの話は、聖書信仰のある牧師はこの話を実話だったと答えています。
しかしたとえ話であっても人の死後はこうなるとイエス様はおっしゃられています
まぁ仮に伝道の書でソロモンが人の死後意識は無いと語ったとしても、私たちはイエス様が語られた方を信じるべきですよね
でもイエス様は神様なんやで!
あんさんどっちを信用するって?そりゃイエス様やろ!!
さらに聖書は人の死後に意識があることを説明している
この聖句は人の死後に意識があることを伝えている強力な証拠となっています。
へブル人への手紙(ヘブライ)9章27節
人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている
出典:新共同訳聖書より
人が死ぬこと・・・つまり意識がないということが裁きを受ける状態ではないですか?
犯罪者に意識が無ければ、言い換えれば亡くなっていれば裁くことはできません。
しかし犯罪者に意識がある、つまり生きていれば裁判で裁かれます。
へブル人(ヘブライ)への手紙になるように、人の死後は意識がある(魂はある)からこそ裁くことができるのです。
ひとつ気になるのが新世界訳ではこの箇所をどのように表現しているのでしょうか?
新世界訳ではこの聖句が分かりにくくなっている
新世界訳はなんかよう分らんな!
しかしあまりにも原文と異なるのはよくないので、微妙な訳となっていると言うことですね
改ざんはエホバの証人の十八番やな!
エホバの証人の問題点は、聖書よりも自分たちの教理の方を上にしている
上記にあるようにやな・・・
聖書の文脈ではなく、聖書の一部分を引用してそれを自分たちの教理に合わせるとしか思えへんけどな
イエス様は誰よりも地獄のことをおっしゃられているのに、ラッセルは地獄の教理が受け入れられないがためにエホバの証人は地獄を信じようとしません
ラッセルも所詮人間なんやな
じゃここでも聞くんやけど、イエス様よりもラッセルの方を信用するんか?
私たちは人間の考えよりもイエスキリストが仰られたことに従うべきです
そういうことですか!
まぁわしは関西弁やさかいに・・・
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は話をより分かりやすくするために、あずまさんと島西牧師の会話を重点的にお伝えいたしました。
私からお伝えしたいことがございます。
一旦、ものみの塔やその他の書籍から離れて、聖書のみをお読みになってはいかがでしょうか?
特にルカの福音書16節のすべてをお読みになれば、魂は肉体を離れていくことが書かれています。
これはイエスキリストご自身が語られたお話しです。
ものみの塔やその他の書籍をみるのではなく、イエスキリストご自身が語られた内容を注意深く見ていくとものみの塔の組織が間違っていることに気づくはずです。
その後、福音主義でかつ聖書信仰のある牧師にご連絡をされることをオススメいたします。
もし教会を見つけることが難しければ、オススメしたい教会の紹介ページを参考にしてください。
Comment
おかもと様
御多忙のところおそれいります。
御サイトのJWに関する記事を拝見し、3点疑問に思い教えてほしいことがあります。JWに対して質問したいのですが、近所の王国会館では対応できないようだし、気軽に問合せできる適当なサイトも見当たらないので、元信者のおかもと様なら御存知かと思い、投稿させて頂く次第です。
なお私自身は、おかもと様とは逆のケースであり、福音主義教会に籍を置いてまいりましたがいろいろ悩むところがあり、JWに関心を持っている者です。なので反対する立場ではありませんが、まだ王国会館の集会に参加するほどではなく知識も乏しい者です。
以下、3点につき御教示をお願い申し上げます。
1.JWでは死後に魂が滅ぶと信じているそうですが終末の復活時まで待機するにしてもどこかしら場所的なところが想定されます。JWではそれはどこだと言うのでしょう?シェオールとは言わないのですか?聖書ではそうなっており新世界訳とて変わりはないでしょう。いくら魂の死後生を否定しても聖書を読めば誰もが同じ場所に行くことまでは否定できません(コヘレト3:20他)。JWもこれは否定できないはずですが……。
2.死後の魂を認めないとなると葬式はどのようになっているのでしょうか?元信者のかた、いかがででしょうか?葬式をしているとしたら、どのような主旨でしているのですか?
キリスト教会の葬式は死者が天国に行ったという前提でなされていると思います。だから神父さんや牧師さんも遺族の心を慰めるために、いろいろなことが言えるし讃美歌や聖歌の歌詞とも矛盾しないでしょう。ところが死後の世界が無いとなると、葬式をしても何を祈り、何を語るのか、とんと見当もつきません。
3.JWでは、お墓はあるのでしょうか?でも死後の魂の存在を否定するのだから墓参りは矛盾するのではないでしょうか?葬式もしない、墓も持たない、ということなら、死後の魂を信じないことと通じる気はしますが、そうでないと整合しない感じです。
以上、重ねて、よろしくお願いいたします。
幸楽堂様
ご連絡感謝いたします。
なるほどおもしろいですね!!まさしく私とは逆パターンですね!!
さっそく質問の回答をさせていただきますね。
Q1.JWでは死後に魂が滅ぶと信じているそうですが終末の復活時まで待機するにしてもどこかしら場所的なところが想定されます。
A1.JWの教理ではおっしゃるように死後の魂は滅びます。
つまり無意識無存在という状態になるということです。
この解釈については、聖書のみことばよりも初代会長のラッセルの考えが優先されてしまっているので、こういう教理となっています。
因みにラッセルは地獄の教理を強く否定しています。
※これに関してはJWブロードキャストの動画
https://tv.jw.org/#ja/mediaitems/pub-ivfa1_x_VIDEO
13:30辺り・・・をみればラッセルの考えが分かります。
シェオール、ハデス日本語では”よみ”に関しては、JWは象徴的に解釈しています。
つまり無意識無存在という状態がシェオールまたはハデス”よみ”なのです。
またJWは墓に行くことをハデスに行くという言い方もしますね。
コヘレト聖句にあるように”皆同じところに行く”とありますが、JWは墓に行く(無意識無存在)という解釈です。
おっしゃるように人が亡くなると,復活まで一時的に待機するところが必要ですよね。
これに関しては、エホバが亡くなった人のすべてを記憶しているという認識です。
復活時に、エホバの記憶から再創造するということですね。
またコヘレト9:10でハデスと書かれているのを新世界訳2019では、墓と訳しています。
私自身、教会の牧師に教えてもらうまでは、よみについては一切知りませんでした。
JWは死後の魂は無いとしてから聖書を調べます。
そして聖書の文脈を重視せず、部分的に読むことで人の死後魂は存在しないと無理やり解釈します。
因みにルカの福音書でイエス様がおっしゃられた金持ちとラザロの話は全て象徴的に考えています。
Q2.死後の魂を認めないとなると葬式はどのようになっているのでしょうか?
A2.JWでは信者がお亡くなりになると葬式を行います。
この場合、王国会館で葬式をしますね。
遺体に関しては王国会館に持ち込まず、そのまま火葬するのが一般的だったと思います。
王国会館での葬式は、長老がお亡くなりなった信者のプロフィールをお話しして、その後”地上での楽園で会えることを待ち望みましょう”で締めくくっていました。
先ほども触れましたが、JWの教理ではJW信者の魂も無意識無存在になりますが、地上の楽園では復活します。
正確に言えば、JW信者の意識などをエホバが記憶して、地上の楽園で亡くなったJW信者をもう一度新しく作り変える(再創造する)という認識です。
JWの教理上、人は亡くなると無意識無存在になるのですが、それでも葬式は行います。
かなり語弊があるかもしれませんが、JWの葬儀はメモリアル的な感覚で行っていたように感じます。
補足ですが・・・
JWのとき私は2回葬式に行ったことがございます。
一回目は私のJW時代の唯一の友達が亡くなったときでした。
私の友達のお父さんは、未信者でしたので最初に仏教式、それからJW式をしました。
はじめに仏教式で葬儀をしたということが知れると、JWの規則にうるさい会衆では長老からの呼び出しがあり、背教の疑いにかけれる場合があるようです。
Q3.JWでは、お墓はあるのでしょうか?
A3.JWはお墓を建ててもよいそうです。
この場合もかなり語弊がありますが、メモリアル的にお墓を建てます。
しかしお墓に手を合わせることは偶像崇拝になるので行いません。
一般的には、お墓を建てない人が多かったと思いますね。
補足ですが・・・
初代会長のラッセルのお墓をインターネット等で見ることができます。
”ラッセル 墓”と検索すれば、でてきますね。
このラッセルの墓の存在をJW統治体は言いませんし、JW信者も知らない人が多いと思います。
私はJWから離れてこの画像を見た時にとてもビックリした記憶がございます。
ラッセルの墓がピラミッドの形になっているのは、今のJWの教えとかけ離れています。
参考程度に読んでいただければ幸いですが、JWから教会に行った私の証を簡単にお伝えいたします。
私自身福音派の教会に行って分かったことは、JW以上に福音派の牧師は聖書を知っているということです。
もちろん個人差はあると思いますが、どの牧師もJWの長老よりも聖書に精通していましたね。
私はJW時代にカトリックからJWになった人は知っていますが、プロテスタントからJWになった人を私は知りません。
もちろん中にはいると思われますが、そういう人は聖書の学びが極端に少なかった人ではないかと思われますね。
仮に福音派の教会に通っていた人が、JWの学びをすると恐らく聖書通りではないと感じてしまいやめてしまう人が多いのでは・・と私は感じます。
JWはものみの塔には精通していますが、聖書には精通していない人がとても多いです。
仮に新世界訳を読んでも、言い回しが多く新共同訳や新改訳と比べるととても読みにくいです。
新世界訳2019年度版が出て、かなり読みやすくなりましたが、JWの教理が色濃く出た聖書だと思います。
聖霊様を聖なる力としていたり、ヨハネ1章の聖句にあるように言葉なる神であるイエス様を、神のようであったとしています。
なので私は現役時代、ものみの塔というガイドが無いと聖書は読めないと思っていました。
幸楽堂様
参考にしていただけたら幸いです。
おかもと様
とてもくわしく、わかりやすい回答を頂き、たいへん参考になります。どうやら私の場合、JWに惹かれる一因は聖書の学びが浅いということがあるのでしょう。その点は、反省させられました。
ご回答では、JWの聖書解釈について「象徴的」という言葉が使われていましたが、これがJWを理解する一つのキーワードであるようにも感じます。福音派の方々のように聖書の文言を忠実に読むとJWの教理のようなことにはならないが、これを「象徴的」に読み取るとJWの教理のようなことにもなり得るということですね。
この点は聖書を正典としてどう扱うかという問題になるので専門性が高く、私などには思い及ばないところがあります。
それにしても死後のことについては、私もJWの「無意識=魂の死滅」という理解には同意できません。なぜなら、いかに神さまが信者各人を記憶しておられて再創造なさるといっても、信者は死後に存在がなくなるというのはあまりに無理があると思うからです。復活して最後の審判を受けるには、亡くなった信者が終末に至るまで、個としての連続性とか自己同一性というものを持っていて然りだと思うからです。私が聖書を読んで思うのは、信者が死んだら皆、陰府に行って霊魂として復活の時を待つということです。それまでは霊魂として生き続けるのであり、JWの存在否定は認められません。陰府(シェオール)は空間的な意味での場所ではないにせよ、JWのように象徴的に解することもどうかなと、やはり物理的な空間・領域ではないにせよ、場所的に解するべきところだと思います。
おかもと様はこの点、いかがでしょうか?死後には存在がなくなるだとか無意識になるとか、そういう理解は誤りだと思われますか?
ちなみに私がかつて属していたプロテスタントの改革派教会では、死後の魂は生き続け、すなわち信者は死後も意識を持ち続けるとされています(~『改革派教会の終末論』、『聖書研究 死後と終末』他)。
私はこちらの方が聖書の釈義としては妥当だと思います。でも、聖書が死を「眠り」にたとえて述べているので、これを「無意識」と読み取ることにも一理あるとは思います。ただ、眠りも夢を見るように意識の働きはあるわけで、無意識と解するのは明らかにおかしいとは思いますが、自分がJWの聖書理解に敢えて寄り添うなら、外科手術で経験した全身麻酔、これが死後の状態の想像に使えると思います。たしかに麻酔が効いている間、わたしは無意識でした。睡眠というよりも仮死状態に近いともいえるほど深い眠りでした。当然、夢なんか見ません。
ああいった無意識状態が終末の時まで続くのがJWが考える「死」であるとしたら、我々信者には死後、いっさいの能動性、主体性は認められません。すべてを創造主なる神にゆだねるのみです。しかし、いかに無意識であろうとも魂の父である神さまとの関係の中にあるなら、詩篇4:8にあるとおり、我々は平安だと思います。
「私は横になって穏やかに眠ります。エホバ,あなただけが私を安心して暮らせるようにしてくださいます。」(詩篇4:8 新世界訳)
キリスト教最大の指導者であるアウグスティヌスは『告白録』の冒頭でこう述べていますね。
「あなたを讃えることが喜びであるように、それは、あなたがわれわれをあなたに向けて創られたからです、そのためわれわれの心はあなたのうちに憩うまでは安らぎを得ません。」
(蛇足)
私にとって救済の事柄は、キリスト教の正統か異端かとか、福音派かJWか、といった区別や選択の問題よりも、また、どちらの方が聖書に忠実か……といった問題よりも、今、現にここに存在している自分自身が「死」にぶち当たった時に何を思い何を求めるのか?ということの方が重大なのです。それが私にとってイエスが「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコによる福音書2:27~28)と言われた意味にも通じます。
福音派は「エホバの証人」を「異端」として「世界基督教統一神霊協会=世界平和統一家庭連合」などと一緒くたにしますが、これは誤りです。自分たちの聖書理解とは異なる立場をすべて「異端」とし、さらには悪魔の所業のごとく断罪する、その独善的な傾向に私は疑問を感じました。JWは、キリスト教の「正統」を自認なさる方々から見れば「異端」かも知れませんが、私にとっては、そんな「正統」と「異端」の区別などどうでもいいことです。
要は、反社会的活動をする所謂「カルト宗教」とは混同してはならないと思います。
幸楽堂様
メッセージありがとうございます。
本当に感謝いたします。
確かにJWの教理は象徴的なものが多いですね。
黙示録(JWでは啓示の書になりますね)に関していえば、象徴的に考えないとJWの教理にたどり着くことができませんね。
聖書に書かれていることを象徴的に考えてしまうと100人読めば100通りの聖書の解釈が生まれるとハーベストタイムの中川牧師がおっしゃっていました。
JWの教理は、常に変わっています。
私もJW信者時代、教理変更があった発表を何度も聞いた覚えがあります。
JWが過去に出版した啓示の書に関しては、何十回と訂正を繰り返しています。
その原因は、統治体の執筆委員が変わっているからだと思います。
私は幼少期からJWの教理を教え込まれ、人の死後は無意識になるものだと教えられて育ちました。
しかし幸楽堂様がおっしゃるように私も心のどこかで、人の死後は無意識無存在になることがどうしても受け入れることができなかったのです。
ブログにも書いていますが、私はエホバの証人を辞めて人の死後に無意識無存在になることがとてつもなく恐ろしく感じたのです。
私は教会に通うようになり、牧師のメッセージ動画を何度も見た時に、人の死後意識はあるんだ、例え地獄に行こうとも意識があることに安堵感を得ました。
それから地獄がとても耐えられず恐ろしいところであるのを学びましたので、イエス様が私の救い主であると告白をして私はクリスチャンとなりました。
幸楽堂様は改革派の教会に所属されていたのですね!
実はマスタードクリスチャン教会の日本人牧師は長老派教会の出身で、(因みに島西牧師のモデルです。)人の死後は魂は残るが無意識近い状態となるんじゃないかなと言っておられました。
死後の認識については、改革派と長老派も同じなのでしょうね。
死=無意識になる、またはそれに近い・・しかしJWのように魂は無くならない・・
という解釈ですね。
島西牧師のモデルの牧師は、天国に行かないのですか?という問いに対しては、もちろん人の死後天国に行くことも考えられるし、新天新地の事を天国と解釈することもできるよねとも言っておられました。
そのあたりの認識も一緒でしょうか?
なるほど全身麻酔をされた経験があるのですね。
そうですか!!夢も見ないのですね・・・
すごく興味深いです。
幸楽堂様のメッセージを読むと死について多く触れられていますね。
私もこの死について深く知りたいと思い、教会に通い聖書を調べはじめました。
ハーベストの中川牧師や、宝塚の東牧師も死について深く考えたとおっしゃっていましたね。
灘キリスト恵み教会の牧師がおっしゃっていましたが、人はヘブル2章14から15節にあるように死の恐怖の奴隷となっているとあります。
死の恐怖があるからこそ、聖書を詳しく学ぶことができるのかなと思っています。
このサイトが参考になるかなと思いますので、紹介させていただきますね。
https://megumi-church.com/kyoto/message/gospel/sinokyouhu/
あとがきも読ませていただきました。
私もその通りだと思います。
私は元JWなので、ある教会に通われている方々から新世界訳を捨てろ!とか教理のことは全て忘れてしまえ!などと言われたことがあります。
そういう上から目線で言われてしまうとかなり精神的に辛い状態となります。
この話は実際にあった話のようですが、ある福音派の教会の牧師が、いきなりイエス様の死はなかったとメッセージで話されたそうです。
そのことを言った瞬間、その牧師は正しくなくなります。
それからその牧師のメッセージを聞きたいかと言えば私は聞きたくありません。
だからやはり私たちも使徒の働きの聖句に出ているベレアの人たちのように注意深く聖書を読まないといけないのでしょうね。
おかもと様
こちらこそ貴重なお教えを心より感謝します。ベレアの人たちのように注意深く聖書を読まないといけないとのお言葉、自戒として心に収めさせて頂きました。私はベレアという地名さえも憶えていませんでした。でも拝読してゆくと、おかもと様と私とは現在の立場は少し違ってはいても、畏れながら、死に関して救いを求める心は深く共感できる部分があると感じました。
それにしても鳥西牧師のモデルである長老教会の先生が、「人の死後は魂は残るが無意識近い状態となるんじゃないかなと言っておられ」たというお話には驚嘆いたしまして、先ほど妻と、同じプロテスタントでもわからないものだねえと語り合ったところです。なぜなら宗教改革者のカルヴァンの流れでは、死後の魂ははっきりと意識状態にあるとされているからです。
宗教改革の時代には、いわゆる「アナバプテスト」(再洗礼派)の一部がJWの考えに近い「死後の魂の眠り」ということを聖書から読み取ったそうですが、これをカルヴァンが反駁したとのことです。改革派の教理では、贖われた信者の死後は陰府ではなく天国とされますが、そこでは魂が十分に意識があるとされます。
米国の改革派教会の神学者にして牧師のW・ヘンドリクセンによる『聖書研究 死後の終末』によると、「死後の魂の眠り」という説は保守的なキリスト教会の中にも主張する人がいるそうです。それもこれも聖書が「死」を「眠り」にたとえていることによる解釈の相違が原因のようです。
私はJWのように、死後には「存在がなくなる」とか「魂が死ぬ」とかいうことを聖書から解することはできませんが、よくよく考えますと鳥西牧師のモデルの牧師先生が言われた「人の死後は魂は残るが無意識近い状態となる」という説もアリかな……と思えるようになりました。
私のキリスト教入信の動機は死の恐怖の問題と共に、対人関係における心の傷の問題もありまして、要するに劣等感による苦しみなのですが、トラウマって結局は記憶の問題なんですよね。自分にとって心の傷になっている、トラウマになっている過去の記憶を失うことができれば解決するわけです。その点で、JWの教理で死後は記憶がなくなるだとか意識がなくなるだとかいうのは、精神的な問題に関しては、リアリティを感じ得るか否かはともかく、福音的でさえあるのです。魂が残るなら、意識はかなり制限されたっていいと思います。だって意識が働けば働くほど、心の傷は癒されないからです。
それから、上から目線のことですが、これって本当に宗教にはあるまじきことですよね。イエスは逆のことを教えておられます。謙遜ですよね。ところが、キリスト教会の中にも、「正統」を掲げる人々の中に、どうしても上から目線はあるのです。JWなど「異端」とされている団体から普通のキリスト教会に転入なさった方々がおられます。統一協会からの転入については別に議論すべきだと思いますが、元JW信者さんに対しては、過去に信じてきたものを全否定させるようなことは言うべきではないと思います。それは、いかにマインドコントロールによるとは言え、人生の一時代を賭けて真剣に活動してきた人たちに対して失礼です。
「正統」といわれるキリスト教にも歴史的な過ちはあります。けっして完璧ではないのです。だから、キリスト教会こそ、イエスに倣って謙卑の精神で、この世の貧しき者たち、抑圧されている者たちの友として歩んでゆかねばならないと思います。
ところがどうでしょう。日本ではキリスト教主義大学は偏差値教育の先端に立ち、ブランド化が進んで青山学院に代表されるような、イエスの精神とはまったく逆行する機関が生まれています。さらに立教大学などはカジノを含むIR(統合型リゾート)に関するシンポジウムを主催しようとして、推進派と誤解されかねない挙動を示しているではありませんか!学内に批判があるのは当然であり、じつにキリスト教の恥です。またキリスト教の看板を掲げる医療機関はどうですか?聖路加国際病院などは全室が個室ですよ。富者を批判し、貧しき者たちに寄り添ったイエスを証言したルカ福音書の著者の名を用いていながら、このザマです。金持ち志向の経営であることは明らかじゃないですか!それに比べて、子どもたちを受験競争には乗せず、教育現場での武道も拒否する平和主義のJWの立場には共感するところがあります。しかし輸血拒否だけは断じて認められません。
幸楽堂様
再度メッセージをくださり本当に感謝いたします。
返信が遅れまして申し訳ございません。
なるほど、宗教改革時代に死についてそういうことが教理があったのですね!
私が知っている牧師の中で、島西牧師のモデル牧師が死後無意識になるとおっしゃっていました。
他の牧師は、信者は天国にあげられ意識があるとおっしゃっていますね。
しかし天国に行く・・・または救われる為にはイエス様の福音を聞いてそれに信仰を持つことは全員の共通認識です。
確かに幸楽堂様がおっしゃるように、現代のキリスト教はイエス様の精神とは正反対の行動をしているところが多いかもしれませんね。
しかしこれは世界中で起こっているような気がいたします。
フランスやドイツでは、教会離れが深刻化しているようです。
今通っている教会の牧師曰く、自由主義神学の影響なのではないかと言っています。
そして聖書のみことばから真剣に学ばなくなったことも原因の一つだと思われます。
しかしこの現象はイエス様の使徒たちが活動している時からも起こっていたのかなと思います。
グノーシス主義がその代表ですね。
黙示録にも書かれている通り7つの教会の中でまともなのが フィラデルフィアの教会だけでした。
みことばは永遠に価値のあるものと聖書に書かれていますね。
これは私の体験ですが、確かにみことばをしっかり教えている牧師のメッセージはとてもおもしろく興味を引き付けます。
特に宝塚の東牧師のメッセージはとてもおもしろく私たちをひきつけます。
東先生はYouTubeでたくさんメッセージをアップされています。
もしよければご覧ください。
https://www.youtube.com/user/yabaikenji/videos
おかもと様
シャローム!ハレルヤ!毎度おおきにありがとさんでございます。
おかもと様が貼ってくださったリンク先は拝見しております。JWブロードキャストの動画については、私は特に輸血代替療法に関するものに関心を持って再生してはみたのですが、残念ながら送信速度が遅くてすぐに止まってしまって視聴に堪えませんでした。対策としてはビデオ解像度の設定を最低の240pに落とすくらいしかなかったのですが、それでもダメでした。おかもと様のPCでは滞りなく再生されますか?
次に京都恵みキリスト教会の伝道メッセージ「死の恐怖の奴隷」を拝見して、気が楽になりました。結論部分の、「そこで神は、人間を死の恐怖から解放するために、救い主をお与えくださいました。その方こそ、約2000年前に人としてお生まれになってくださった神の御子イエス・キリストです。(中略)キリストを救い主として信じる者は、罪の赦しと永遠のいのちが与えられ、神の御国である天に入る者とされるのです。ですから、キリストを信じた者にとって、死はもはや恐怖ではありません。むしろ、天への入り口に変えられているのです。どうか、あなたにもキリストを信じ、死の恐怖からの解放を得てくださいますように。」には励まされました。
特に主語を「神」、目的語を「キリスト」に置いて、ドグマティックに語らず、テモテ第一2:5に即して「キリストを救い主として信じる」と書かれていることに共感しました。それはこのサイトの管理者の意図とは必ずしも一致しないかも知れませんが、ネットで発信した文言がどう受けとめられるかは受信者・閲覧者にゆだねられる部分もあるでしょう。
私にとって「神」と言えば唯一、創造主エホバ(=ヤハウェ)のみであり、そのエホバはイエスさまが「アッバ(父よ)」と呼びかけ、弟子たちに「あなたがたの(魂の)父」としてお示しなさったお方であります。旧約聖書の神エホバは、キリスト教の「正統」自認派が言うような父,子,聖霊の三一神などではありません(……聖書をあたりまえに読めばそんなヘンな解釈にはなりません)。啓示の漸進性などは認めません。すなわち旧約の時代はまだ神さまが十分に示されていなかったんだ、新約の時代に入り、イエスさまが誕生されてから神さまが完全に示されるようになったのであって、それまでは神さまは人間に対して十全には示されていなかったんだ……みたいな、教義にこじつけるようなロジックは認めません。聖書では最初っから「神」はエホバと決まっているんです!そしてそのエホバは新約の時代に入って、イエスの「父」以外の何者でもない!
しかし私は自分と違う理解も尊重する立場であり、そこが、自分たちと異なる立場の人たちをサタンだの悪霊だのと誹謗中傷する福音派牧師などとは違うところです。私が尊敬する牧師は「異端」とされている立場に対しても寛容な人です。すくなくとも教理に凝り固まった福音派牧師などではありません。もちろん、その「異端」が「世界基督教統一神霊協会=世界平和統一家庭連合」のように「異端」のレベルを超えて「反社会的勢力」の一種であるなら、それは羊である信徒を狼から守るための警戒警報的発言はアリでしょう。しかしそうではない場合の方が多いのです。私が尊敬する牧師は、自分たちと異なる考えの人たちの声にも傾聴する人、多様性を尊重する人です。すくなくとも、『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(いのちのことば社)という本で、「異端とは何か、それは主イエスを神としないことです。したがって異端の背後にいるのはサタンでしかない」云々を言う者(→豊橋ホサナキリスト教会牧師・森川昌芳)や、「教会が誕生した時以来、悪魔はその信仰を攻撃してきました。(中略)三位一体の教理の重要性を知っているサタンは、様々な異端のグループを通して、この教理を根底から否定しようとしています。」などと語り、キリスト教会が「異端」とみなした者はすべて「悪魔・サタン」にコントロールされた者であるかのように言う者(→真理のみことば伝道協会 ウィリアム・ウッド)・・・こういう排他的で狭量な人間を私は断じてキリストの福音伝道者とは認めません。もちろん、キリスト教の教義を否定する者はキリスト教徒とは言えません。ですから「三位一体」を否定する以上、その者は「異端」というより「異教」徒なのです。ですから正規の信徒として扱われないのは仕方のないことです。しかしだからと言って、「悪魔・サタン」まで持ち出して誹謗する必要はあるのでしょうか? 「悪魔・サタン」と結び付けられるということは、聖書を信じる宗教の中では「人間失格」を言うくらいの苛酷な意味があります。「おまえは悪魔の手下だ!」と言えば、キリスト教社会では最大の侮辱であり、人格を抹殺することを意味するのです。
そこで私は福音派牧師たちに問いたい!エホバの証人の人たちが「正統」を自認し自称するあなたたちに対してなにか迷惑をかけたのでしょうか? その尊厳をふみにじられ、侮辱されなければならないようなことをしたでしょうか? 否!です。断然、否!なのです。福音派牧師の中で上記の森川やウッドのように「悪魔・サタン」まで持ち出し、相手に心の傷を負わせるようなひどいことを公の文書に書かれねばならないようなことを、エホバの証人の人たちは何ら犯してはいないのです!
実に私のようにプロテスタントの主流教派にありながらも「異端」のレッテルを自称「正統」派の人たちから貼りつけられたエホバの証人の信徒さんたちに対して同情的立場の者は、上記の森川&ウッド組のような心なき中傷によって自らも傷つけられているのです。それでひとこと、指導をしなければいけないと思ってウッドには私が電話をしました。ところが彼は1回だけ出て、あとは逃げて逃げて、まともに対話しませんでした。きちんと議論するだけの自信がないのでしょう。書物のような一方通行なら言いたいだけ言うけれど、相手に面と向かってはよう言わん……その態度そのものが独善性を現わしているではありませんか!
そういうことで私は福音派牧師に対して「異端者にも基本的人権あり!」と叫ぶのです。けっして「サタン・悪魔」などと結び付けて語ってはならないのです。それは相手の人格を否定することを意味するからです。最大の侮辱です!彼らはそんなこともわからないのです。なぜイエスさまが教えられた「平和(シャローム)」の方に心を向けないのですか? なぜ、すぐに自分たちと考えが異なる他者を「サタン」だの「悪魔」だのと結び付けて攻撃するのですか?エホバの証人があなたたちに対して何をしたというのですか?人格攻撃をしてきましたか?
さて、東先生のyouTubeのメッセージを拝聴し、たしかにおかもと様が言われるとおり、とてもお話上手でひきつけられるものがありました。技術的にはすばらしいと思います。ただ、内容的にはその柔和な笑顔には合わない部分を感じました。それはまず、反社会的勢力である「やくざ(=暴力団)」をも、エホバ神が「善人・義なる者たち」と同じくその上に太陽を昇らせ雨を降らせるところの「悪人たち・不義なる者たち」に含めて考えられていることです。それはちゃうやろ~!と私は思いました。まあ、宝塚ですから兵庫県ですから関西ですから、「やくざ」を構成する被差別部落や在日韓国・朝鮮の人たちが多い土地柄、言いにくいこともあるのはわかります。しかしですねえ、「やくざ」はどこまでいっても「反社会的勢力」であり、教会の説教で、こいつらのことをちょっとでも擁護するようなことを牧師が言うことは社会的に許されるものではありません!こいつらが、一般市民にどれだけ恐怖感などの迷惑をかけていると思っているのでしょうか?あいつらは「やくざ」やチンビラは、一般市民からどれだけ厳しく言われたって文句を言う権利などないのです。「ミッション・バラバ」のように悔い改めて信者になり伝道者になるのは一部の人であり奇跡であり例外です。
福音派牧師は「やくざ」という社会のゴミを擁護するようなことを言いながら、その一方で「異端」を誹謗中傷するというのはどういうことでしょうか?間違えてはいけません。市民の敵は「異端」ではなく「やくざ」です。
あるアホな牧師が言いました。「日本ではやくざはそれなりの役割を果たしてるでぇ~!」…… 私があんさんナニが言いたいの?と問えばアホくさ……「被差別部落や在日韓国・朝鮮の人たちは、一昔前の日本社会では就職口もろくになかった。それをやな、やくざは引き受けたんや……就職先になったんや……」だと。ほんまアホくさ。福音派の対極である社会派と呼ばれる連中の中にも、こういう非常識なことを平気で嘯く牧師もいます。おかもと様、そんなんばからしゅうして聞いてられへんでしょ。わしもそうでした。なにが、やくざに社会的役割があるか~と。でも東牧師も結果的には同じようなこと言うてるんですわ。これはダメです!
さて、自分たちの理解こそ正統であると自負し、自分たちと異なる理解の人たちを「異端」とみなし、しかもその信仰を否定し誹謗し、悪魔・悪霊の所業であるかの如く攻撃する、そういう差別者たちが福音派と呼ばれる人たちの中にいることは確かです。特に牧師さんの中にです。
私はそういう人たちこそ、おかもと様が指摘なさった「上から目線」の、さらに言えば自己絶対化の態度をとるキリスト教徒だと思っています。だから私は福音派キリスト教の信徒にはなりません。エホバの証人の徒になるんなら、それはキリスト教を出て、新しい宗教に入るつもりで入ります。キリスト教にはそれなりの基本信条があり、その点では福音派の立場は理解できます。しかし私は福音派のような独善的で偽善的な連中に迎合しようとは思いません。だから「正統」を自認する連中がヘゲモニーを取っているキリスト教組織などからは出て、別の宗教としてのエホバの証人に入るか、あるいは自分で日本ユニテリアンキリスト教会の旗を掲げようと思います。その時はおかもと様もよろしければ合流してください。もっとも、あなたがプロテスタント福音派キリスト教で満足ならそれはそれでよいと思います。とにかく、この時代、人それぞれ、信仰の在り方は多様なのですから、やれ「正統」だの「異端」だのと差別せず、おおらかに互いの信仰の尊重し合えばいいとは思いませんか?なにも誹謗中傷めいたことを言って傷つけ合うことはないはずです。私たちの主であるイエス・キリストはそんなことを望んではおられないと思います。
おかもと様ご推薦の東研一牧師さま、二言目には、聖書は総合的に読むことが大事で、リベラル派のように自分らに都合のよい聖句を寄せ集めるのは邪道ですよ……と。言うなればリベラル派の歴史的批判的解釈というのは、自分が好き勝手にあっちゃこっちゃから聖句を寄せ集めて自分に考えを正当化するために都合が良いように読み取ることなのですね?ほう、果たしてそうでしょうか?神学の勉強ということも言っておられましたが、その神学にも歴史があり、いろんな系統のいろんな立場がありましょう。
一概に福音派の神学だけが神学や~!とは言い切れないと思うのですがどうでしょう? ですから結局、牧師さんらは何をどう言おうが、結局は多様性を尊重するしかないんですよ。これはあらゆる分野で要請されている時代の趨勢でもあります。リベラル派の歴史的批判的解釈というのは、自分が好き勝手にあっちゃこっちゃから聖句を寄せ集めて自分に考えを正当化するために都合が良いように読み取ることではありません。東研一牧師は神学の勉強ということも言っておられましたが、その神学にも歴史があり、いろんな系統のいろんな立場がありましょう。一概に福音派の神学だけが神学や~!とは言い切れないと思うのです。
リベラル派やらエホバの証人やらは異端や!サタンに支配された連中や!地獄に堕ちると決まってる連中や!……と、そう言うなら、それもまたパリサイ人と同じく自分たちの立場を絶対化して他者を裁いているのとちゃうでしょうか?いや、東先生がそんな人やと決めつけているわけではないですよ。そういう牧師さんも福音派の中にちらちら、見聞きされたということです。福音派の考え方に合わないことを言う人がいると、すぐにサタンと結び付けたがる人です。反社会的な集団、カルト宗教なんかはともかく、そこまではいかない団体……、要はキリスト教の教義と合わない考え方を持つエホバの証人のような団体までも誹謗中傷するという誤りがあるわけです。ですから結局、牧師さんらは何をどう言おうが、結局は多様性を尊重するしかないんですよ。これはあらゆる分野で要請されている時代の趨勢でもあります。
在主
補足しますが、福音派牧師に多い最大の誤りは、聖書を人間を活かすためではなく潰すために(……結果的にはそうなっていることに本人たちは気づいていない!)使っていることです。
聖書に書いてあるんだから絶対だ!それを言って相手が死のうが生きようが関係ない……なんて思っているのなら根本的に間違ってます。
いや、たとえ聖書の言葉であっても、それを使う人の使い方、語る人の語り方によっては人を傷つけ、心理的に殺す武器にもなりうるということ、わかってますか?聖書に書いてあることなら、時と場合に限らず、どのようにでも自分たちの勝手な解釈で講釈たれていいのでしょうか?
つまり、ここにこう書いてあるでぇ~!わしらが言うとるんとちゃうんや、聖書にそう書いてあるんや!といった言い方で、自分たちの解釈を絶対化して、他者をサタン・悪魔にコントロールされた人間であるかのように言う場合も、ほれほれ、ヨハネのここに書いてあるやないけ~!とか、どこそこにこう書いてあるんや!と得意げに言い放つ福音派牧師がネット上にも跳梁跋扈している現実があるんですよ。
どれだけ勉強したのかは知りませんけど、その偏った知識でもって相手を脅し、傷つけるために(……本人はそんなつもりはない。ただ書いてある事実をそのまま言うてるだけや!と言うのだけれど、それが言葉の暴力になっているのであり、聖書をその道具にしていることに気づいていない!)聖書を悪用しているということなんです!
たとえ、聖書にそう解釈できるようなことが書いてあるとしても……、です。そもそも聖書は相手を攻撃するために使うべきものではなく、逆に相手の心を癒し、相手と平和な関係を築いてゆくためにこそ使うべきものではないでしょうか?そこが福音派牧師はわかっていないんです。自分たちこそ聖書を正しく理解している人間だという自惚れがあり、それによって結果的に聖書を、他者を裁き、異なる立場の者を責め殺す道具にしちゃっているんです。これは聖書の誤用です。
百歩譲って、聖書に書いてあることを福音派牧師が語っているとしましょう。しかしそれが人を活かすことではなく、人を傷つけ、人と人との関係に不和を生み出す原因となっているとしたら、それは聖書に書いてあるから絶対なんや、真実なんや、と主張する前に、自分自身が神さまの前に謙虚にされなければならないことではないでしょうか?そう、思い上がってはならないのです。自分たちは、他の人たちよりも、いわゆるリベラル派の人たちや、「異端」であるエホバの証人の人たちなどより、神のことばである聖書を正しく理解している人間なんや!という自負をやね、人を活かす方に伸ばすんなら、それは神さまのみこころにかなうことかもしれんけど、あんたらはそうではなく、なにかというとリベラル派攻撃、異端攻撃に使うやないか! 聖書をやね、相手の人格攻撃に使っているやないか! やれ、サタンのどうのこうの、悪魔・悪霊がどうのこうの、と。それはわしらが言うてるのとちゃうで、聖書がそう書いてあるんや!と、聖書というより自分らの独善的な解釈・ドグマを振りかざして、我々を攻撃している、相手の人格を責め殺しにかかっている、そんな聖書の扱いをしていることを、福音派牧師の連中はまったく気づいていないし、だから反省もできていないんです。
聖書はそういう使い方をしてはいけないんです。ここにこう書いてあるやないか!だから、あんたは異端なんや!悪魔の使いなんや!人間失格なんや……と人を追いこんでいる、絶望に陥らせている、それが正統主義という大罪なんです!いくら聖書に書いてあることだって、人の手を通して書かれているわけで、批判的に読み取らなければならないこともあるんです。時代背景とかをまったく無視して、ただ文字通りに読めばいい、原文を直訳するような読み方が信仰的にも正しいんだ……みたいな頑迷な考え方ではダメなんです。ギリシャ語文法にくわしいから新約聖書の真実を正しく理解できる……というもんではないんですよ、何よりも信仰、何よりも心に愛が、キリストの平和の満たしがあるかどうかなんです。それが基本であり、その上で学習しないと、やれ、ここはこう読むのが正しいんだ、リベラル派のアホは自分らに都合よく、あっちゃこっちゃから聖句を引っ張ってきとるだけやんけ……、おれら福音派の人間の読みが総合的で正しいんや。神のみこころに一番かのうとるんやでぇ~……みたいなこと、よう、動画で言うなあ、ほんま、呆れるわ。
いやむしろ原文直訳なら福音派牧師の説教とは違う意味になることもあるわけで、本来、聖書が語っていることを福音派ドグマによって粉飾し、それこそ自分たちに都合よくこじつけた解釈で語っている面も多々あります。
たとえば、ヨハネ第一5:20ですが、新改訳2017版で読むと「真実な方」と「その御子イエス・キリスト」とは「接続詞なしで並列された前置詞句(文法的には副詞句)であり、「その御子イエス・キリスト」の「その」は「神の」という意味です。だから信徒は「父(なる神)」の中にも、あるいは「(神の)御子イエス・キリスト」の中にも、両方の中にいる……ということを言っています。それで問題は最後の「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」の「この方」とは誰か?「御子イエス・キリスト」のことか、それとも「真実な方=父なる神」のことか……?ということです。文脈的にはどうですか?神の御子は真実な方を知る理解力を信徒である私たちに与えてくださった……そのことを私たちは知っている……と述べているのです。すなわち、「真実な方=父なる神」と「神の御子=イエス・キリスト」とは全く対等な関係ではなく、知らされるものと知らせる者という言わば主従の関係になっています。御子はあくまでも媒体でありメッセンジャーです。その上での「この方」なのです。だから「まことの神」といえば従たる「御子」ではなく主たる「真実な方」すなわち「神の御子」とあるとおり御子の「父」にほかなりません。そう解釈するのが文脈的には妥当であり自然なのです。ただし、文法的には「このかた」という指示代名詞が基本的には近くにあるものを指すということがあるのと、「永遠のいのち」と言われているということでヨハネ福音書との関連から「御子イエス・キリスト」であるとも解し得ます。私は「この方=真実な方=父なる神」という理解に立ちますが、「この方=御子イエス・キリスト」という理解を否定するものではありません。実際にこの箇所は「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」の「この方」を「父なる神」であるとも「御子」であるとも、両者と解することを可能とする原文になっているわけです。それが客観的事実です。それなのに、福音派牧師のほとんどが、「この方=御子」という理解の方だけを絶対とし、「この方=父なる神」という理解を否定し誤解と断ずるのです。それは信条・教義に合わせるためです。ドグマ先行の聖書解釈が福音派正統主義たちの聖書の読み方なのです。この実態を覆って、「総合的な読み方」がどうのこうのとか言って、いかにも福音派牧師である自分たちの読み方が最も神さまのみこころにかなう正しい読み方であるかのように吹聴しています。まさに自画自賛の偽善的行為にすぎません。
これは一例にすぎず、他の箇所でも、複数の解釈が可能であるのに、自分たちの解釈だけを絶対化し、それが聖書の正しい読みであるかのように言い放って、リベラル派や異端派など、自分たちと立場を異にする人たちを裁くのです。そのために厚かましくも聖書を使うのです。しかし福音派牧師たちの実態は、聖書を使い、みことばを振りかざしているようであって、実は自分たちの聖書解釈を、すなわちドグマを振りかざしているのです。まさに律法主義のパリサイ人と同じです。自分たちが他者を斬るその同じ刃によって自分たちが逆に斬られる……批判されている……そういう事実を福音派牧師たちは気づかないのです。そんな連中が、自分たちこそ神さまに対して敬虔な、信仰深い、模範的な人間であるかのように思い込み、また、信徒たちの前でふるまっているのだとしたら、それこそ滑稽な話ではありませんか!
イエスさまはそんな生き方をしましたか? 聖書を振りかざして人の心を傷つけるようなことをしましたか? 福音派牧師よ!あなたがたのその教条主義的・正統主義的な聖書の悪用……、その偽善的なパリサイ人のような態度は、イエスさまの精神と逆行しているのとちゃいますか?イエス様は、安息日は人のためにあるといった自由人です。あなたがたのような律法主義的聖書主義者ではありません!
聖書は人を活かすためにこそ用いなさい! 聖書のどこそこに、こういう言葉があると偉そうに言いたいなら、それを、違う立場の信者を裁いたり異端攻撃などのために使うのではなく、むしろ異端とされている人々との相互理解や多様性の尊重という平和・協調の方向へ進むために使いなさい。それがキリストの平和にかなう行き方です。キリストの平和がわたしたちのこころのすみずみにまでゆきわたりますように……という祈りを常に心に持って伝道しなさい。
それともうひとつ、誤解のないようにおことわりをしておきますが、日本のいわゆる「暴力団」の構成員には、被差別部落や在日韓国・朝鮮の人たちが多いということは客観的な事実として知られていることです。しかしだからといって私は、そのほとんどがやくざだと言っているわけではありません。もちろん被差別部落や在日韓国・朝鮮の大半の人々は普通の市民だと思っています。そして被差別部落や在日韓国・朝鮮の人ではない人もやくざになっている人間はいることも承知しております。だから、なんか、やくざとか暴力団は被差別部落民か在日韓国・朝鮮人だけで構成されてる、占められている……みたいに思われたら、それは誤解ですので、念のためにここに書いておきます。私はちゃんと人権教育を受けてきておりますので、そういった方々に対する差別や偏見は毛頭ございません。ただ、やくざ・暴力団など反社会的勢力に対しては、一般市民としての強い思いを持っている次第です。以上です。
幸楽堂様
メッセージ感謝いたします。
返信が遅れてしまい申し訳ございません。
うーんなるほどです。
私の所では、JWブロードキャストの動画は何とか見れていますね。
たまに遅いときもあります。
確かにキリスト教会の牧師または信徒の中には、エホバの証人の教えはすべて悪いと言う方はいらっしゃいますね。
新世界訳を破り捨ててしまえと言った方はその最たる方だったのかなと思います。
しかしマスタードシードクリスチャン教会の牧師お二人はそのような牧師ではないですね。
エホバの証人だった私を受け入れ、おかもとさんの場合、新世界訳も読んで学習した方がいいかもねとおっしゃられた時は、スゴい牧師だなと思いました。
頭ごなしにエホバの証人の教えはダメと言えば、エホバの証人の方が離れていくことを知っていたからでしょうか。
私の場合、他にもいい教会はあるんじゃないかと思いいくつかの教会に行ったことがありますが、結局マスタードシードクリスチャン教会に戻って洗礼を受けました。
一般のキリスト教会は私のような元エホバの証人に対して本当に厳しいことを言われました(笑)
実はエホバの証人もキリスト教をキリスト教世界といい、大いなるバビロンだと教えています。
私は教会に通うまでは、教会とはサタンの組織だと思っていましたから(笑)
私もJW時代はキリスト教の牧師をスゴク批判しておりました。
私のブログにも書いていますが、高校時代にキリスト教の教会に通う友達を抗議したことがあります。
キリスト教世界は救われないと言い、とてもねちっこく攻撃した覚えがありますね(とても罪深いことをしておりました・・・)
一年前に私はハーベストタイムのサマーキャンプに行きましたが、エホバの証人と論争になったことがある方がとても多くいるとこに気づかされました。
イエス様の教えは例え敵であっても愛する必要があります。
キリスト教世界は大いなるバビロンだと批判するエホバの証人、新世界訳を破り捨ててしまえといいJWは全て悪と思われているキリスト教信徒の方がとる行動は、もしかしたらキリスト教もJWもイエス様の教えと反することをやっているのかもしれませんね。
しかしマスタードシードクリスチャン教会の牧師、宝塚の東牧師、さらに言えばリディーマCITYTOCITYに所属している牧師は頭ごなしにJWは悪いと決めつけることはされませんでした。
マスタードシードクリスチャン教会の牧師お二人と東牧師は本当に心優しい牧師です。
私はこの牧師たちがいなければ、キリスト教は悪い宗教だと思っていたと思いますね。
マスタードシードクリスチャン教会は比較的お若い方が参加されています。
若いクリスチャンの方が仰っていましたが、教会の人たちがとても親切にしてくれたんで、なぜこのように親切にしてくれるのか
疑問に思ったそうです。
そこからその人が信じているイエスキリストとはどういうお方なのかを学習してクリスチャンとなったようです。
こういう話はキャンパスクルセードの宣教師から聖書を教えてもらったお若い方の証でも似たようなことを経験されていますね。
新しく教会に通うようになられた人の為に祈り、優しく聖書の福音に導くことをされています。
その結果、特にお若い方がバプテスマを受けられていっていますね。
またご覧になっていただきたい動画がございます。
NCCTOKYOドリュー牧師のメッセージ動画ですが、教会のありかたについて4本動画がございます。
https://youtu.be/p0E_urePuxE
https://youtu.be/b8L5R-QjNAo
https://youtu.be/7xfTxip3xhY
https://youtu.be/hvdX_wuF2Mk
ブログでも書いていますが、NCCTOKYOとマスタードシードクリスチャン教会の雰囲気はとても似ています。
教会の人たちは新しい人を迎えるのがみなさん大好きで、教会に来た新しい人の為に救われるようみなさんで祈ります。
福音派と呼ばれる教会でも、とても過ごしやすい愛のある教会があるんだと言うことを是非知っていただきたいなと思います。
>若いクリスチャンの方が仰っていましたが、教会の人たちがとても親切にしてくれたんで、なぜこのように親切にしてくれるのか疑問に思ったそうです。そこからその人が信じているイエスキリストとはどういうお方なのかを学習してクリスチャンとなったようです。
・・・私はこれが、本当にイエスさまの教えにかなった救いの道だと実感しました。元・JWの信者のかたにコメントして頂いて本当に良かったと思います。
そして、おかもと様が得ることができた福音は、本当に神さまからのものであり、人を生かす真実の教えであると私は実感できたので、おかもと様がすすめてくださる動画はじっくり拝聴しようと思います。
それにつけても、エホバの証人は統一協会などのような反社会的勢力のカルト宗教などではなく、それなりに真剣に救いを求めている団体であることが通じ合えたことはよかったと思います。
おかもと様が福音派のキリスト教徒になられるまでのJWでの歩みは、けっして無駄なことではありません。全部が全部、否定されるようなことではないのです。
確かに翻訳された聖書は違うかも知れないし、神の救いへのアプローチは異なるかもしれません。しかし私は、聖書が真の神と教えているエホバ(ヤハウェ)に対して熱心に救いを求める立場は、どれもエホバが嘉せられることだと確信しているのです。けっして他の立場の人から悪魔扱いされたり侮辱されるようなことではなく、それはそれで、ひとつの真剣な信仰のかたちとして創造主エホバにおぼえらえることだと確信します。
これからもどうぞ、エホバへの信仰を大切にして、イエスさまへの信仰も尊重しながら、信仰の多様性を尊重し、正統と異端との区別にこだわらず、まさにイエスさまの生き方にならっておおらかな行き方をお互いに心がけてゆこうではありませんか!
お付き合い頂き、本当にありがとうございました。これにて失礼いたします。主の平和
幸楽堂様
メッセージ本当に感謝いたします。
そしてありがとうございます。
確かにそうですね。
JWも統一教会の方も神様を求めて入会された方々ですもんね。
神様を求めているところでは、本当に私たちを同じ考えなんだと思います。
JWだから嫌いだ、キリスト教だから嫌いだではない考え方が必要だと感じます。
私もエホバの証人の方、元エホバの証人の方向けにブログを運営していますが、元私の仲間だった人向けに書いているつもりですね。
わたしこそ幸楽堂様とメッセージでいろいろなことをお話しできててとても勉強になりました。
ありがとうございました。
私もイエス様に信仰を持って一人でも多くの方が救いにあずかれるよう頑張りたいと思います。