エホバの証人ではなく、聖書が教える罪からの救いとは?

あんさんは罪びとやで!!
いきなり何ですか?
私はエホバの証人時代、人は皆罪びとであると教えられてきました。
なので、人は罪を持った存在であることはよく理解していたつもりでした。
私がパート時代にパート先の主任さんがこのようにおっしゃったことがありました。
”人間は皆不完全だからね、完璧な人はいないよ!!”
当時私は人は不完全と聞くとどうしてもエホバの証人モードになってしまい、主任さんにこういったことがあります。
実は聖書にもそのことが書いてあるのですよ
・・・とエホバの証人時代に伝道したことがあります。
パート先の人たちにも伝道されていたのですね
あんたそれ時間つけられるよ!とアドバイスしてもらった記憶がありますね
わしの質問は妥当やったってことやんな?
もくじ
人の心の中には罪の意識が眠っている
何か聞いたことあるで!
これは私がエホバの証人時代に伝道をしているときに言っていた言葉です。
しかしこう言ったことは、日本でもほぼ毎日どこかで起こっています。
世界で見るとこれらのことが、日本の数十倍起きている国もあるでしょう。
その時どう思ったんや?
スゴく興味深いお話しありがとうございます
例え、私のような牧師でもそういう心はあります
なぜ人の心に罪が入り込んでしまったのか?
ちょっと余談ですが・・・
これは私おかもとの経験ですが、聖書信仰と言いながら実は聖書は矛盾があると教えている牧師は、あまり罪というキーワードを使いたがりません。
おかもとさんが行かれた教会の牧師は、自由主義神学を学んでいるものと思われますね
神様側から見る罪とは何か?
あんさんは罪びとやで!!
そう言われるとどう思う?
わしもそう思うんやな
私とあずまさんとの会話の中でも、罪と聞くと確かにネガティブな違和感を感じてしまいます。
しかし神様の目線で見ると、視点が異なります。
ではここにモーセの律法という枠を入れますね
これらの律法は守れそうですか?
守れるかもしれませんね
恐らくできないと思いますし、過去にこれらのことをしたことがありますよ
これらのカードに書かれていることをやってしまうと、ゲヘナ(地獄)行き・・・
つまり人の死後、地獄へ行ってしまうことになります。
ローマ5章13節にも律法が無ければ罪と認識できないと・・・
つまり島ニッさんの言いよった枠とは律法の枠のことなんや
じゃ誰も守れないじゃないですか?
聖書にこのように書かれていますよね
エペソ人への手紙(エフェソス)2章3節
わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
出典:新共同訳聖書より
言い換えると人の初期設定は地獄へ行ってしまうということですね
そのため、神は人となられた
人は誰も、神様の怒りから自分を救うことはできません。
イエス様が神なのかについてはこちらをご覧ください
三位一体ではない!?エホバの証人の教えは本当なのか?(イエス編)
そのことが分かる聖句を引用いたしますね
エペソ人への手紙(エフェソス)2章4節~5節
しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
出典:新共同訳聖書より
少し深呼吸いたしましょうか?
おかもとさんそのことについて解説いたしますね
エホバの証人が教える罪の解放とは何か?
エホバの証人が思っている罪と、聖書に書かれている罪とでは意味が異なります。
このことはエホバの証人公式WEBサイトに書かれています。
罪に対する罰は死であり,火の燃える地獄での責め苦ではない。
「死んだ者は自分の罪から放免されているのです」。―ローマ 6:7。
どういうことや??
比較を図にしました
だから人は死ぬとその人の罪は解放されるとあるんやな
ものみの塔ではなく、聖書から学ぶ罪からの解放方法とは?
そのことが書かれている聖句を引用いたしますね
エペソ人への手紙(エフェソス)2章8節~9節
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるものではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
出典:新共同訳聖書より
そして自らの力ではなく、行いによるものでもないともはっきり書かれています
あんさんホンマによう島ニッさんいじめるん好きやな!(笑)
ではヤコブの聖句をご説明いたしますね
信仰によって救われた人々が行うこととは?
ヤコブ2章17節
信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
出典:新共同訳聖書より
極端なお話しですが、万引きをしているクリスチャンは神様への信仰があると思います?
ちょっと悲惨に描きすぎちゃうか?
イエスキリストへの信仰があれば自然に伝道をしてしまう?
これは私おかもとの体験になります。
私はキリスト教会に通いはじめた時、絶対に伝道はしないと思っていました。
そして家族にも聖書の教えを伝えたりしていませんでした。
しかしイエスキリストを主として信じるようになると、自然に家族を教会に誘ってみたり、クリスマスのビラを配りに行ったりしていました。
このブログもそうですね。
私おかもとはこのブログをエホバの証人のように半強制的にそして義務として、または他人から言われてやっておりません。
もしそうであったならはじめから辞めていたと思います。
イエスキリストを心から信じると、自然にそうなるというのが正解だと思います。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
人はアダムとエバから受け継いだ罪を持っています。
これは人であればどの国籍の人だろうが、誰でもそうだと聖書は教えています。
罪は神の怒りをもたらし、結果としてゲヘナ(地獄)へ行ってしまいます。
しかし神様はそういう人間をとても愛しているので、自ら人となり十字架で人間の罪のために亡くなられました。
そのことを信じるだけで人は救われ、天国への希望を持つことができるのです。
人は信仰を持つと義の人になります。
つまり信仰を持つと、自然と行いも伴ってきます。
もしまだ心からイエスキリストを信じていない方は、教会の牧師を尋ねられるとよいと思います。
このブログでもオススメ教会のページがございます。
是非そちらのページも参考にしてみてください。