えっ本当!?地獄はエホバの証人が言うように存在しないのか?

地獄って人が絶えれないほどめっちゃ熱いんやで!
あんさん!こういう話信じとる??
人が亡くなると無意識になるので、そのことを地獄って言うんじゃないですか?
私があずまさんに答えたように、エホバの証人は地獄の存在そのものを否定しています。
エホバの証人はそれを研究生と言われる時から、地獄のような恐ろしいところは無いと書籍を通じて教えられます。
実は私も、エホバの証人である母親からそのことを学びました。
そして母親から若い兄弟に司会者を交代されてからも、地獄は無いのだと教えられました。
率直に言ってくださり、私はうれしいです
もくじ
地獄について何と書かれているのか?エホバの証人の書籍や冊子を見てみる
では本当にエホバの証人は地獄について存在しないと言っているのか?
調べたいと思います。
「地獄」とは何ですか。そこは永遠の責め苦の場所ですか
聖書 の 答え
一部 の 英語 聖書 は,ヘブライ 語 の「シェオル」と それ に 相当 する ギリシャ 語 の「ハデス」を「地獄」(hell)と 訳し て い ます。
シェオル と ハデス は,人間 に とっ て 共通 の 墓場 と も いう べき 場所 を 指し て い ます。(詩編 16:10。使徒 2:27)
この 記事 の 宗教 画 に ある よう な,火 の 燃える 地獄 の 存在 を 信じ て いる 人 は 少なく あり ませ ん。
しかし,それ は 聖書 の 教え で は あり ませ ん。
1、シェオル(地獄)では,人 は 無 意識 で あり,痛み を 感じ ない。
「シェオル……に は,業 も 企て も 知識 も 知恵 も ない」。―伝道 の 書 9:10。2、良い 人 も シェオル に 行く。
神 を 信じ て い た ヤコブ や ヨブ も,自分 は そこ に 行く と 考え て い まし た。―創世記 37:35。ヨブ 14:13。3、罪 に 対する 罰 は 死 で あり,火 の 燃える 地獄 で の 責め苦 で は ない。
「死ん だ 者 は 自分 の 罪 から 放免 さ れ て いる の です」。―ローマ 6:7。4、永遠 の 責め苦 に 遭わ せる こと は 神 の 公正 に 反する。(申命記 32:4)
最初 の 人間 アダム が 罪 を おかし た 時,神 は 罰 を 言い渡し まし た。
「あなた は 塵(ちり)だから 塵 に 帰る」と 語り,アダム が 単に 存在 し なく なる と いう こと を お告げ に なっ た の です。(創世記 3:19)
もし アダム が 火 の 燃える 地獄 に 落とさ れ た なら,神 は うそ を つい た こと に なり ます。5、永遠 の 責め苦 に 遭わ せる こと など,神 は 考え も し ない。
地獄 の 火 で 人 を 罰すると いう 考え は,「神 は 愛」と いう 聖書 の 教え に 反し て い ます。―ヨハネ 第 一 4:8。エレミヤ 7:31。
ものみの塔またはエホバの証人は、ヘブライ語シェオルとギリシャ語ハデスを地獄としています。
しかしエホバの証人が思っている地獄のイメージと、キリスト教世界の地獄のイメージは全く異なります。
ものみの塔は人は亡くなると、無意識、無存在の状態になると教えています。
つまり死後の魂を否定しています。
さらに言うと、人は死ぬと無意識無存在の状態になるので、地獄で永遠に責め苦に遭うことはないということです。
地獄に関するものみの塔の問題点とは?
ものみの塔は、シェオルとハデスを地獄と訳しています。
そして地獄は義人と悪人の共通の墓場としています。
しかしシェオルとハデスを新共同訳聖書では、よみ(陰府)としています。
上記のエホバの証人公式WEBサイト(地獄とは何ですか)に出ている 1、シェオルでは・・・と 2、良い人も・・・はまさに、よみ(陰府)の説明になります。
ちょっとブレイク!! 実は新世界訳の前にシェオルとハデスを地獄と訳していた
実はエホバの証人の新世界訳聖書が登場する前に、シェオルとハデスを地獄と訳していた聖書がありました。
エホバの証人が新世界訳聖書の他によく引用されているジェームズ王欽定訳聖書です。
この訳からシェオルとハデスを地獄と訳すようになったと言われています。
問題点その1 ラッセルが地獄の教理を否定したから
これは上記のエホバの証人公式サイト(地獄とは何ですか)に出ている4番目と5番目の項目の答えになります。
エホバの証人の方がよく言われるのが、エホバは愛の方であり公正な方であるということです。
だからエホバは人間に対して、恐ろしくて火が絶えず燃えている地獄で永遠に苦しみを与えられるはずがないと考えています。
これはものみの塔初代会長のチャールズティズラッセルが思い描いていていたことです。
当時ラッセルが思っていたことを、エホバの証人公式サイトのビデオでこのように述べています。
自分の力を使って人間を創造しておきながら、その人間がとこしえの責め苦に遭うのを予知し、予定しているような神には知恵も公正も愛もあるはずが無い。
その基準は多くの人間の基準よりも低いこととなる
しかしこれは聖書の神様のお考えではなく、人間の考えに基づいたものです。
シェオルとハデスを、よみ(陰府)ではなくそれを地獄と置き換えれば、人間は永遠の責め苦に遭うことはない。
この考えはエホバ証人が思っている答えです。
そしてこのような考え方はとても危険です
問題点その2 聖書を部分的に見ている
これは上記のエホバの証人公式サイト(地獄とは何ですか)の1番と3番をもう一度確認しておきます。
「地獄」とは何ですか。そこは永遠の責め苦の場所ですか
聖書 の 答え
1、シェオル(地獄)では,人 は 無 意識 で あり,痛み を 感じ ない。
「シェオル……に は,業 も 企て も 知識 も 知恵 も ない」。―伝道 の 書 9:10。3、罪 に 対する 罰 は 死 で あり,火 の 燃える 地獄 で の 責め苦 で は ない。
「死ん だ 者 は 自分 の 罪 から 放免 さ れ て いる の です」。―ローマ 6:7。
エホバの証人は聖書を部分的に取り上げています。
これは上記の引用個所である伝道の書9章10節でも、ものみの塔は部分的に見て解釈しています。
確かに、上記の引用文にあるように人の死後、無意識、痛みは無いとあります。
伝道の書9章9節~10節
日の下で[神]があなたにお与えになったあなたのむなしい命の日の限り,そのむなしい日の限り,自分の愛する妻と共に命を見よ。それが,命と,あなたが日の下で骨折って働いているその骨折りとにおける,あなたの分だからである。 あなたの手のなし得るすべてのことを力の限りを尽くして行なえ。シェオル,すなわちあなたの行こうとしている場所には,業も企ても知識も知恵もないからである。
出典:新世界訳聖書より
新世界訳聖書を見ても、よみの世界には、無意識、痛みは無いとは書かれていません。
ここでソロモンが言いたいのは、日の下で(太陽の下)骨折って働いても、シェオルに行ってしまえば、その働いた分を持っていくことができない。だからむなしいと言っているのです。
その結果、聖書が語りたいことを捻じ曲げたり拡張したりして解釈しています。
さらに続きます・・・
罪に対する罰は死であり,火の燃える地獄での責め苦ではない。
「死んだ者は自分の罪から放免されているのです」。ローマ 6:7。
この引用聖句を見ると確かに新共同訳聖書でも”死んだ者は自分の罪から解放されています”と書かれています。
つまり、人は亡くなると生前に行っていた罪から解放されると解釈しています。
しかしこれは大きな誤りです。
パウロは何と答えているのでしょうか?
新世界訳のローマ6章1節から8節までを引用します。
ローマ6章1節から8節
そこで,わたしたちは何と言えばよいでしょうか。過分のご親切が満ちあふれるために,罪のうちにとどまるべきですか。 断じてそのようなことはないように! わたしたちは罪に関しては死んだのですから,どうしてなおもそのうちに生きつづけてよいでしょうか。 それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです。 ですから,彼の死へのバプテスマを受けたことによって,わたしたちは彼と共に葬られたのです。それは,キリストが父の栄光によって死人の中からよみがえらされたのと同じように,わたしたちも命の新たな状態の中を歩むためです。 彼の死と似た様になって彼と結ばれたのであれば,わたしたちは必ず,彼の復活と似た様になってやはり彼と結ばれるのです。 わたしたちが知るとおり,わたしたちの古い人格は彼と共に杭につけられたのであり,それは,罪深い体が無活動にされて,もはや罪に対する奴隷とはならないためです。 死んだ者は自分の罪から放免されているのです。さらに,キリストと共に死んだのであれば,彼と共に生きるようになることをもわたしたちは信じています。
出典:新世界訳聖書
しかしパウロの言っていることを文脈から読み取っていただきたかったのです
マーカーで色がついているところだけでも読んでみてください
ここでパウロが言いたいのは、イエスキリストと共に死んだのであれば、罪から解放されていると言うことです。
つまり、人が生前に犯した罪はイエスキリストを救い主として認める、またはバプテスマを受けることで解放されるということなのです。
バプテスマはエホバの証人の教理ではエホバに献身することですが、この新世界訳聖書を見てもバプテスマはイエスキリストとの一体化を象徴しています。
地獄について聖書は何と答えているのか?
聖書では地獄について何と書かれているのでしょうか?
イエスキリストは地上におられる間、誰よりも地獄について語りました。
ルカ19章19節~26節
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~中略~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
やがてこの貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちはよみ(陰府)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの下を冷やされてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」しかしアブラハムは言った「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが。ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」出典:新共同訳聖書より
またまたホンマにこれは長いで!!
わがまま言わんでください!!
ここに二人の登場人物がでてきます。
金持ちとラザロです。
二人とも亡くなりましたが、亡くなった後の行き先が異なります。
ラザロは宴席にいるアブラハムのところに連れて来られましたが、金持ちはよみ(陰府)で炎の中でもだえ苦しんでいます。
おかもとさんの言うようによみ(陰府)と捉える人もいれば、地獄という人もいますね
しかし我々は、お金持ちがいる世界を地獄に近いよみ(陰府)と認識していますね
ラザロには名前があるが、金持ちには名前が無い
ここで注目したいところがあります。
救われているラザロには名前がありますが、金持ちには名前が無いことです。
私の兄の高校時代の話になります。
兄の通う学校で、ミュージシャンの桑田佳祐初監督作品である映画 稲村ジェーンを見に学校を休んだ友人がいたそうです。
その友達にはちゃんとした名前と苗字があるのに、”おい稲村!”と言われていました。
恐らく兄の友人の価値観が”稲村ジェーン”だったからです。
島西牧師が言うように、お金持ちの価値観はまさしく”お金”だったのかもしれません。
つまり、救われている人は神様がきちんと名前を覚えてくださっていることに対して、救われていない地獄に行く人の名前は覚えておられず、価値観だけしか覚えらていません。
そしてこの金持ちはとくに罪らしいことは行っていない
ここの聖句で注目したいことは、この金持ちは特に罪を働いたことは書かれていません。
金持ちだったくらいで、ぜいたくに遊んでいただけです。
つまりお金が偶像だったということです
神よりもお金を愛していると神様から”神の子”とされないのです。
つまり神よりも大学、または仕事をとってしまうと神の子とされない危険性があります
しかし会社つまり収入を優先させないと自分の生活ができなくなるのであれば、それを優先させる必要がありますよね?
島ニッさんが言うとるんは、神様よりも会社を愛しているかどうかってことや
なにも自分の生活を犠牲にして教会生活を大事にしなさいと言っているんじゃないのです
ここの聖句をエホバの証人はどのようにとらえているのか?
エホバの証人の書籍でもこのラザロとお金持ちを解説した記事があります。
”これまで生存した最も偉大な人”という書籍の中でこのように説明しています。
富んだ人(金持ち)は霊的な特権や機会に恵まれている宗教指導者たちを表しており、ラザロは霊的滋養物に飢えている一般の人々を表しています。
富んだ人とラザロは実際の人物ではなく、特定の部類の人々を象徴しているので、当然彼らの死も象徴的なものです。
彼らの死は何を象徴している(のでしょうか)。
謙遜な、悔い改めたラザロ級の人々は、霊的に恵まれていなかった以前の状態に関して死に、神の恵みを受ける立場になります。以前は宗教指導者たちに頼って霊的食卓からのおこぼれにあずかろうとしていましたが、今ではイエスがお与えになる聖書の真理が彼らの必要を満たしています。彼らはこうして、大いなるアブラハムであられるエホバ神の懐、つまり恵まれた位置に身を置くことになります。
一方、富んだ人級を構成する人々は、イエスの教えた王国の音信を頑固に拒みつづけるため、神の不興を買います。それで、恵みを受けているように思えた以前の立場に関して死ぬのです。
事実、彼らは比喩的な責め苦に遭っている者として述べられています。
出典:これまで生存した最も偉大な人 88富んだ人とラザロより
出典:これまで生存した最も偉大な人より
ここでは、金持ちはパリサイ人や書士たち、サドカイ人や祭司長などの宗教指導者を表しています。
そしてラザロは、霊的滋養物に飢え渇いている人たちを表してします。
つまりこの書籍から分かるようにこの話は、金持ちは文字通りの地獄の炎の中で責め苦に遭うのではなく、これは比喩的な例えに置き換えられています。
一般のクリスチャンの人はこの聖句を見て、地獄とはそういうところなのかが分かると思いますが、エホバの証人は地獄そのものを否定しています。
そのためこの聖書箇所は地獄ではなく、象徴的な例えして説明しています。
神様の基準と人間の基準は異なる
だって大した罪じゃないのに、地獄に行くのは抵抗がありますよ
しかしこのように例えるとどうでしょうか?
最近、有名な女優さんが亡くなられました。
後に、女優さんの旦那さんがこのようにおっしゃいました。
”あいつは(いいやつ)だったからきっと天国に行っている”
確かに立派な女優さんだったと思います。
しかしこの答えは神様目線で言っているのではなく、人間の目線で言っています。
さらに続けます。
ある人にあなたは今まで嘘をついたことはありますかと質問したときに、いや全く無いと答えたえるとどうでしょうか?
おそらくこの人は嘘をついていると推測できます。
なぜなら完全な人はこの世の中にいないからです。
聖書はこう述べています。
ローマ3章10節
次のように書いてあるとおりです。
正しい者はいない。一人もいない。
出典:新共同訳聖書より
確かに聖書にモーセやダビデのように神に選ばれた義人はいます。
しかしモーセもダビデも生前に罪を犯しています。
嘘ぐらいいいじゃない、人からものを盗むことも大したものでなければいいじゃないと思うかもしれません。
しかし神様の基準はそれよりももっと高いのです。
神様の基準はモーセの十戒や、イエスキリストの山上の垂訓でも言い表されています。
私たちはどうしても自分で基準を決めてしまいます。
神様からの基準は、どんなにいい人でもアダムの子孫であり罪びとなのです。
つまり、私たちがイエスキリストの贖いの犠牲を信じなければ、どんなに頑張っても地獄に行ってしまうということなのです。
この時点でのまとめ
1、エホバの証人は地獄を否定している。
なぜ否定してるのかというと・・・
2、チャールズティズラッセルが地獄に対して否定をしていたから。
ラッセルが考えたように人間の観点で地獄を考えると・・・
3、大きな罪を犯していない人も地獄に入るのはなかなか受け入れにくい。
4、しかし神の観点は人間とは異なる。
5、地獄は無いという前提で聖書を読んでしまうと、どうしても無理が生じてしまう。
続きの記事がございます・・・
今回はエホバの証人から見た地獄についてを解説してきました。
しかしまだ疑問があります。
よみ(陰府)とはどんなところなのか?
他にも地獄を語っている聖句はあるのか?
キリスト教では、イエスキリストを信じない人は全て地獄行きと言っているが・・・
イエスキリストを知らないまま亡くなった人たちも、すべて地獄に行ってしまうのか?
詳しくはこちらの記事で解説しております。
↓↓
本当に聖書は地獄があることを教えているのでしょうか?